吉田牛曳 絵銭~江戸時代の縁起銭
(吉田牛曳絵銭について)
江戸時代に代表的な銅貨として「寛永通宝」が沢山作られました。
その時に製造された場所(銭座)が常陸水戸藩(茨城県水戸市)・陸奥仙台藩(宮城県仙台市)・信濃松本藩(長野県松本市)・豊後竹田藩(大分県竹田市)、三河吉田藩(愛知県豊橋市)の8カ所です。
その中の一つ、吉田藩の寛永通宝は、寛永十七年(1640)まで製造されておりました。
その吉田藩は将軍家光の命令で銭座を新銭座と命名し、町名を新銭町(しんせんまち)と名付けられました。
新銭町という地名は昭和三十三年(1958)に広小路3丁目に改名されるまで、使われておりました。
寛永通宝の製造を止めた後の吉田藩の新銭座では絵銭である「吉田牛曳絵銭」(よしだうしびきえせん)が製造されました。
庶民が牛を引く絵が描かれた絵銭です。
「吉田牛曳絵銭」は寛永通宝など銭を紐に通し数える区切り銭して使われておりました。
別名「百の数取り銭」とも呼ばれておりました。
このため、吉田牛曳絵銭は「百徳を得られる縁起銭」として江戸時代の庶民からお守り銭として喜ばれました。
また面子(メンコ)などの子供の遊び道具としても使われました。
あと現在、愛知県の白山比咩神社境内社に、金山彦神を祀る新銭座金山神社が祀られております。
そこには造幣・鋳造の守護神として金運・商売繁盛・事業発展などのご神徳があると信仰されております。
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