明治通宝 1円 札
明治通宝の発行とその背景
明治維新により新政府が成立し、1869年(明治2年)に明治政府はオリエンタル・バンクと貨幣鋳造条約を結びました。当時、戊辰戦争の軍事費を賄うために大量の紙幣が発行されており、これらの紙幣は太政官札、府県札、民部省札、為替会社札など多種多様で、偽造紙幣も多く存在しました。松方正義は1870年(明治3年)に福岡藩の太政官札偽造を発見したと言われています。このため、共通通貨「円」の導入とともに、近代的な紙幣の導入が急務となりました。
新紙幣の発注先の選定
当初、日本政府は新しい紙幣をイギリスに発注する予定でしたが、北ドイツ連邦のドンドルフ・ナウマン社が「エルヘート凸版」による印刷が偽造防止に効果的であると提案してきました。さらに、印刷技術の移転も行うという条件も提示されました。これを受け、大蔵卿の大木喬任は1870年10月にドンドルフ・ナウマン社に9種類の券種、総額5000万円分(後に5353万円分を追加発注)の紙幣を発注しました。
紙幣の製造と発行
1871年(明治4年)には、岩倉使節団が欧米視察に出発し、3月に岩倉具視がビスマルクと会見しました。9月には大蔵省に紙幣司が創設され、数週間後には勧工寮と合併して紙幣寮が発足しました。同年12月にドイツからドンドルフ・ナウマン社製の紙幣が届きましたが、安全対策のため未完成であり、紙幣寮で「明治通宝」や「大蔵卿」の印などを補って印刷しました。当初、「明治通宝」の文字は手書きで記入されていましたが、効率が悪いため木版印刷に変更されました。
明治通宝の発行とその後の問題
明治通宝は1872年(明治5年)4月に発行され、新時代の到来を告げる紙幣として歓迎されましたが、流通が進むにつれていくつかの問題が明らかになりました。まず、デザインが全ての額面で同一であったため、額面を変造する不正が横行し、偽造も多発しました。また、紙幣の洋紙が日本の気候に合わず、損傷しやすく変色しやすいという欠陥もありました。
ドンドルフ・ナウマン社との取引と国産化への移行
1873年(明治6年)10月9日、ドンドルフ・ナウマン社は経営難に陥り、明治通宝の製造設備を売却したいと日本政府に申し出ました。1874年(明治7年)には同社から明治通宝の原図や原版が日本に引き渡され、技術者の派遣も決定されました。また、アメリカ人のトーマス・アンチセルが紙幣寮に移り、紙幣用インキの研究・製造に従事しました。1875年(明治8年)には、元ドンドルフ・ナウマン社のエドアルド・キヨッソーネが紙幣寮で技術指導を行いました。
明治通宝の終焉
1877年(明治10年)に勃発した西南戦争では、明治通宝が莫大な軍事費支出に役立ちましたが、偽造や欠陥が問題となり、1881年(明治14年)には改造紙幣に取って代わられました。
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